わたしは鍵付き日記が書けない
お久しぶりの方はお久しぶりです。はじめましての方、もしいたらはじめまして。
みなさん健やかにおすごしですか。そうですか、それはよかったです。私もとりあえずは元気です。なんとか生きています。
久々に、インターネットの海に自分のどうでもいい文章を放流したくなりました。中学生のときからそうしてきたので、もう手癖みたいなもんです。(逆に鍵付き日記的なものが書けない人)
とはいえSNSはもういいかな、と思っているので、こじんまりと、こんな文章を読んでくれるどこかの誰かに向けて、ひっそり近況をつづることにしました。
……というたてまえの、自分の言葉を書き散らすリハビリです。頭の中の整理整頓です。100%駄文です。明るい話もあんまりないかもしれん。
広報活動のTIPSとか、ライターのためのノウハウとか、仕事に役立つような話はたぶん一切書きませんので読んでもとくにメリットはないです。
それでもいいぞ、という方のみ、ここから先へどうぞ
できなくなったこと
ずいぶん前から、思うように本が読めなくなった。(昔からの知り合いは、まだ、わたしのことを読書家だと思ってくれている人が多いかもしれない)
活字を眺めても内容が頭に入ってこず、書いてあることを咀嚼して、読み進めるプロセスで気力を激しく消費する感じ。だから軽々しくページを開けない。結末がほぼわかっている軽いミステリー小説を、なんとなく斜め読みするくらいで。
かろうじて「書く」方はなんとかなっているけれど、仕事で必要な読み書きだけで、たぶんわたしの言語処理に関する脳内リソースは120%フル稼働状態、もう余白がなくなっているのだろうと推測している。
仕事で正解がなく、複雑なことを考えなければいけない機会がめちゃくちゃ増えていることも影響しているのだろうか。HPも足りないがMPがぜんぜん足りない。本は読みたいけれど、背に腹は変えられないので、いまは限りあるMPゲージとにらめっこしながら原稿を書き続けている。この状態はいつまでもつのだろう、と、ぼんやり考えながら。
両親を見送ったこと
2023年5月に、75歳になった父を看取った。
喪失感はもちろんある。でも歳を重ねるにつれ、いつかくると覚悟はしていたし、不幸中の幸いというかなんというか、ちょうどコロナ禍による病院の面会禁止などが緩和されたタイミングで、最期に向かう時間を家族で過ごすことができたし、(気持ち的には)最悪の状況の中であっても、一つひとつそのときの最善を選びとれた感覚があって、自分にできることはやりきった、と思えた。
うちは母が同じ病気で十数年前に亡くなっていて、そのとき本当に何もできなかった大きな後悔をずっとひきずっていた。だから「あのときと比べれば」と、どうしても考えてしまうのだろう。
若い頃から結婚・出産願望が微塵もなかった(ちなみに今もない)わたしは、独身ひとり暮らしで仕事ばかりしてきた。
ただ、いざ両親を見送り、そして長い時間を費やしてきた仕事の方で気持ちが揺らいでいるいま、はじめて、何をよりどころにしたらいいのか、伸ばした手が常に空を掴むような感覚を味わうようになった。
40歳、いまわたしは人生の大きな曲がり角にさしかかっているのだろうと、否が応にも実感させられている。いろいろな解釈があるらしいことは知っているが、「不惑」とはかけはなれた状態の日常を、ゆらりゆらりとやりすごしていかなければならない。
そんな、毒にも薬にもならない日々のこと、頭の中に浮遊するあれこれを、しばらくここにつづってみます。たぶん。
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